Deep
ある日、深夜3時まで残業をして、家に帰る途中で胡同(フートン)を通りかかった。カメラを持っていたので、そのまま何となく路地の中をぶらぶら歩きながら、深夜の胡同を気の向くままに撮っていた。
それまで、胡同や深夜、あるいは何かの「プロジェクト」について、特別な考えがあったわけではない。そもそも胡同は、以前から僕が最もよく撮ってきた題材のひとつだった。
けれど、その夜だけは何かが違った。
まるで何かに取り憑かれたように、胡同を歩きながら、どこかから呼ばれているような感覚があった。ベンヤミンが『写真小史』の中で語った「アウラ」のように、突然、僕は**「深」**というものを撮りたいと思った。


当時の僕は、Bruce Gildenから強い影響を受けていた。フラッシュを手に、街でひたすら人を撮っていた。
けれど、撮り続けているうちに、少しずつそれにも飽きてきた。
その頃、僕はよく考えていた。
「このまま撮り続けても、せいぜい“中国のBruce Gilden”になれるだけじゃないか。」
そして、たとえそうなれたとしても、それはやはりNothingだ。
Nothingとは、Nobodyであるということだ。
写真において、あるいはもっと広く芸術というものにおいて、思考のない模倣は、ほとんどの場合、失敗の始まりだと思う。
けれど面白いことに、本当に深くストリートの中へ入っていくと、それまで見えていなかったものが少しずつ見えるようになる。
僕はその能力を、ひそかに**「ストリート写真の体質」**と呼んでいる。
この「体質」というものを説明するのは難しい。
でも、ある程度経験を積み、本気でストリート写真を撮っている人なら、街へ出た瞬間に、きっとあの感覚がわかると思う。
周囲の何かを感じ取る、独特の感覚。
何かが起ころうとしていること、あるいは、すでにそこに存在していて、ただ発見されるのを待っている何かを感じ取る力。
そういう感覚そのものが、一種の「体質」なのかもしれない。
だから、午前3時の胡同を一人で歩いていたとき、あの正体のわからない「アウラ」が、突然すべてが変わり始めたことを僕に告げた。
まるでもう一組の眼が開いたようだった。
見慣れているはずなのに、どこか見知らぬものにも感じられる周囲の世界を、突然、鋭敏に捉えられるようになった。
昼間の胡同が喧騒と活気に満ちた**「暖」の風景だとすれば、深夜の胡同は、すべての音が消えた「冷」**の風景だ。
昼間の騒がしい人々がいなくなり、最初に感じるのは、周囲のすべてが静まり返ったということだった。
けれど、そこでじっと動かずに立ち、深夜の胡同に置かれた静物のひとつになったつもりで、その静けさの中に溶け込んでいく。
すると、忘れ去られたすべての物たちが、それぞれ自分自身の言葉を持っていることに気づく。
彼らは絶え間なく囁いている。
それぞれが、自分の声を発している。


「クトゥルフ神話」から多少影響を受けていたこともあって、深夜の胡同には、ある種の**「不可知」**の魅力が漂っているように感じられた。
そこには誰一人いない。
それでも、そこに置かれた物たちを見ていると、人間がここで生きていた痕跡を確かに感じることができる。
まるで、水晶玉を通して終末後の幻影を覗き込んでいるようだった。
夜の中で譫言のように囁き続ける胡同を歩いていると、僕はひどく非現実的な感覚に襲われた。
自分自身が、さまよう幽霊になったような気がした。
世界が終わったあとに残された幻影を、ただ冷淡に、客観的に記録することしかできない幽霊。
何かを必死につかもうとしている。
けれど、どうしても何ひとつ、つかむことができない。
「すべてのものには、それぞれの温度がある。けれど、はっきりとわかる。もう冷たくなっている。」
そんな考えが、ずっと頭の中に残っていた。



最も面白いのは、こうした静物を通して、昼間ここで暮らしている人々のさまざまな欲望を想像できることだ。
嫉妬、傲慢、怠惰、強欲、色欲。
そしてもちろん、もっと素朴な無知、卑小さ、狂気。
さらには、小さな人間たちが未来に向けて放つ、希望の叫びまで。
「深」夜の中で、写真家である僕は、まるで悪魔の使者になったようだった。
フラッシュを手に、隠されていたものを容赦なく引きずり出していく。
宝くじに託された人々の貪欲な欲望を撮ることができる。
外に干された下着から滲み出すエロティシズムを撮ることができる。
誰にも見張られることなく置かれた、棘だらけのサボテンを撮ることができる。
そして、次の世代に託された限りない期待を見ることもできる。
つまり、昼間なら口にすることさえ憚られるようなものたちが、深夜になると突然、何の遠慮もなく、大っぴらに姿を現す。
「夜は、いったい何かを覆い隠すのか。それとも、暴き出すのか?」
それは秘密だ。


