なぜ私は写真を撮るのか

誰かに、なぜ写真を撮るのかと尋ねられるたび、私はこの問題を注意深く考える。カメラを手にした人は誰でも、しばらく撮り続けたあと、「写真とは何か」、「自分は何を撮るべきか」と自問するようになると思う。それは、人が冗談めかして人生の三大問題と呼ぶ「あなたは誰か」、「どこから来たのか」、「どこへ行くのか」と同じで、決まった答えはないように見える。

これまでに、私はおよそ3万から4万枚の写真を撮ってきた。真剣に撮ったものもあれば、何気なく撮ったものもある。何度も自分を疑う時期を経験し、そのたびに低い場所から這い上がってきた。そこから抜け出すたび、新しい景色が見え、過去に悩んでいたことが取るに足りないものだったと感じる。写真とは何なのか。なぜ私は写真を選んだのか。

01 - 絵画と写真

私を知る人なら、数年前まで私が主に絵画を学んでいたことを知っていると思う。子どもの頃も、主に絵を学んでいた。絵画の道に進むことはなかったが、絵画と芸術に対しては、今も観察者であり学ぶ者として接している。多くの人は、無意識のうちに「絵画」をより高度な芸術だと考え、芸術家であることを格好よいものだと思っている。しかし現在、芸術は、対象を似せて描くことから自己表現へと、すでに大きく移っている。この考え方には異論も多い。現代美術は革新のための革新になっており、伝統にも学ぶべきものが多くあると考える人もいる。それでも世界を見渡せば、芸術における爆発的な革新を止めることは、どの角度から見ても難しい。

百年を超える写真の歴史は、絵画、より正確には伝統芸術と、絶えず絡み合ってきた。写真は粗野で粗製濫造され、無限に複製できるものだと考える人もいる。一方、絵画だけが精緻で価値があり、唯一性を持つ芸術だという考え方である。この観点に立つと、写真には反論の余地がないように見える。技術を身につけるまでの入り口や、一つの作品を完成させるために必要な長い学習と複雑な訓練を考えれば、写真は技芸、あるいは芸術として、確かに絵画ほど価値がないようにも見える。それでは、なぜ写真を選ぶのか。

絵画と写真

私にとって写真は、より自由で、より公平に世界を観察する方法である。私には絵画の基礎があり、絵によって制作することもできる。それでも写真を好むのは、写真が技術の入り口を低くする一方で、表現に求められるものを高くするからだ。

ダダイズム、フルクサス、ポストモダニズムが現れるにつれ、芸術は、対象を似せて描く技術から、自己表現の基盤へと移っていった。芸術家の集団も考え直し始めた。芸術は富裕層や権力階級だけの特別な産物であるべきではなく、普通の人も享受できるものであるべきだ、と。

芸術と表現

カメラの普及やスマートフォンの発達によって、誰もが写真家になれると誤解する人は多い。しかし、よい写真には、世界を深く観察する基礎が必要である。その基礎がなければ、写真は表面的な「華麗な言葉」にとどまり、時間とともに忘れられてしまう。

02 - どのように写真を撮るか

どのように写真を撮るか

写真を学ぶとき、人はカメラそのものに意識を向けやすい。もちろん私にも、そのような時期があった。その後は、ぼけや解像感、黒つぶれや白飛びに関心が移る。この道を進んでいけば、すぐに行き止まりへ到達し、「撮るものがない」という袋小路に入ってしまう。

写真家への私の助言は、外へ出て現場で写真を撮ることです。ただし、学生なら課程を修了し、できるだけ多くの言語を学び、映画を見て、本を読み、美術館へ行き、視野を広げることも大切です。

— マルティーヌ・フランク

新人の写真家にどのような助言をするかと尋ねられたら、私は「世界を観察する力を鍛えること」と答える。カメラを持って目的もなく撮り歩くより、それが役に立つこともある。シャッターを押す瞬間は「運」の産物ではなく、「基礎」、「文化」、「芸術への理解」、「世界の観察」が一体となった実験の結果であるべきだ。

03 - 好奇心を保つ

世界に対する好奇心を失わないとき、写真は新鮮であり続ける。

好奇心を保つ

今日の写真は、技術の集まりであるべきではないし、本来そのようなものでもない。むしろ、思想がぶつかり合う場であるべきだ。大人にとって最も難しいのは、物事を新鮮に観察する力をもう一度持つことである。好奇心を保ち、あらゆるものに想像の余地を残してこそ、写真は「生きた」写真になる。そうでなければ、イメージは「死んで」しまう。

写真を道具として扱い、表現を先に置く。

あらゆるものを試してみてください。報道写真、ファッション、ポートレート、ヌード、何でも構いません。試してみなければ、自分がどのような写真家なのかはわかりません。

— アレック・ソス