# HOW I LEARN - マーティン・パーから学ぶ観察と表現

> よい写真が、必ずしもよいプロジェクトに必要な写真とは限らない。「ゴミを撮る」と言われることを恐れるより、よいゴミをもっと撮ればいい。マーティン・パーのワークショップから、観察、選定、自分自身の写真言語を考える。

- Language: ja
- Published: 2019-12-05
- Author: GuoJing
- Category: HOWILEARN
- Canonical: https://afterimage.photography/post/ja/learning-to-see-with-martin-parr

マーティン・パーの写真は、何が標準的な「よい写真」なのかを教えようとはしない。観察にはユーモアがあり、プロジェクトには選択が必要で、写真はカメラや伝統的な形式だけに縛られないことを示している。『The Last Workshop』を手がかりに、彼の講評、制作、好奇心から学んだ見方を整理する。

最近、マグナムは追加コンテンツのような新しい講座『Martin Parr: The Last Workshop』を公開した。マグナムの対面ワークショップを宣伝する意図もあるのだろう。当初は完全な新講座だと思ったが、実際には最初の講座『The Art of Street Photography』に追加された一章だった。以前の講座を購入していれば、2019年12月15日まで無料で視聴できた。

将来、自分も対面ワークショップを開くかもしれないと考え、この数日、マーティン・パーがどのように講座を進め、何が面白いのかを見てみた。見終わって感じたのは、やはり「マグナムはマグナムだ」ということだった。パーは何がよい写真かを直接教えてはくれない。多くの写真家にとって、型どおりに撮ること自体に意味がないからだ。しかし、彼自身の魅力、作品、そして投げかける問いはどれも興味深い。

ここでは『Martin Parr: The Last Workshop』を見て考えたことを共有しながら、マーティン・パーという写真家について考えてみたい。

## 01 - Martin Parr

![ワークショップでのマーティン・パー](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/01-martin-parr-workshop-9fdd5dd11e8d.png)

マーティン・パーは議論を呼ぶ写真家であり、同時に愉快な「非主流」の写真家でもある。公式サイトを見ると、作品にはどこか「Old Fashioned」な雰囲気がある。さらに、ユーモラスな「いたずら好きの老人」のような気配も漂う。講座のなか、とりわけ被り物を身につけた姿からは、遊ぶことへの強い意欲が感じられる。

現在では彼のスタイルを面白いと思えるが、初期にはそのユーモアが助けになったわけではない。マグナムへの加入時、多くの会員が強く反対し、それをマグナムへの裏切りだと考えた。

> マーティン・パーにはマグナムの精神がなく、会員に求められる社会と呼吸を共にする人道主義もない。彼を受け入れることは単に一人の会員を増やすことではなく、不倶戴天の敵を迎え入れることだ。この投票は、私たちが自分たちをどう捉え、位置づけるかを決める。彼の加入は多様性を増すのではなく、今日のマグナムを築いた精神に反する。

この言葉から、当時のマグナムでは戦争や人道主義的な表現がより高く評価されていたことが分かる。カラー写真も長い間、「シリアスな写真」ではないと考えられていた。のちに色彩もシリアスな写真の一部になりうると証明されたが、当時のパーの作品には強い「非マグナム性」があった。

しかし、写真は苦難や戦争を扱わなければシリアスになれないのだろうか。身近な暮らしからユーモアを抽出することは、写真ではないのだろうか。今日の理解から見れば、そのような作品にも十分な生命力がある。

僕が読むパーの写真には、細かなユーモアが数多く潜んでいる。時に辛辣で、時に素直におかしい。分かりやすく笑いをつくる寸劇的なユーモアとは異なり、制作中の観察と、写真家が世界をどう理解しているかが見えてくる。

![マーティン・パー作品1](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/02-martin-parr-work-6dceae138777.jpg)

![マーティン・パー作品2](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/03-martin-parr-work-5262874c8b16.jpg)

![マーティン・パー作品3](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/04-martin-parr-work-ccb302d0cd24.jpg)

![マーティン・パー作品4](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/05-martin-parr-work-0fca5ae7f847.jpg)

パーは日常生活から多くの興味深い写真を撮り、劇的でありながらユーモラスな「隠し要素」を見つける。上の左下にある朝食は、人間の脳の断面にも見える。さまざまな食べ物が混ざり合い、不可解なのに笑ってしまう観察になっている。

ここから中国の写真家・劉濤を連想する人もいるかもしれないが、二人の観察は異なると思う。劉濤の写真には、中国固有の経験を含む寸劇的な喜劇性が強い。一方、パーには「分かっていても口には出さない。ただ、あなたが気づくか見てみたい」という英国的なユーモアがあり、写真に味わうべき余白を残している。

パーは「写真のクリシェ」についての文章で、次のように述べている。

> Fine art and documentary photographers take great pride in thinking themselves superior to other major genres of photography, such as family snapshots or the work of amateur photographers represented by camera clubs. However, after thirty or forty years of looking at our work, I have concluded that we, too, are fairly predictable in what we photograph.

美術写真やドキュメンタリー写真の写真家は、家族のスナップやカメラクラブに代表されるアマチュア写真など、ほかの主要ジャンルより自分たちが優れていると考えがちだ。しかし、三、四十年にわたり私たちの作品を見た結果、私たちが撮るものもかなり予測可能だという結論に至った。

この言葉は、パーの写真に対する価値観をよく表していると思う。

## 02 - The Last Workshop

![『The Last Workshop』の講座画面](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/06-last-workshop-4c4ae3763215.png)

先にパー本人について述べたのは、講座を考える前に、その個性とスタイルを大まかに知るためである。さらに多くの作品は公式サイトで見ることができる。

ワークショップの冒頭では、参加者が単写真またはプロジェクトを紹介する。多くは数枚から成る小規模なプロジェクトだった。参加者個人の写真なので、ここでは転載せず、講評から得られた要点だけを整理する。

### キーエレメントに注意する

撮影では、写真の重要なキーエレメントに注意する必要がある。人物を撮るなら、その人が明確に見えなければならない。背景の人物が主要な要素を邪魔していないか、たとえば誰かの足が被写体の頭を踏んでいるように見えないかも確認する。

群衆の中では、浅い被写界深度で被写体を分離することもできる。ただし、ぼかすこと自体を目的にするのではなく、表現を実現する具体的な手段として使う。

画面の端にも注意が必要だ。特に人混みでは、端から入る人や出ていく人が画面に影響する。構図を決めるときも写真を選ぶときも、周縁の物や人物を見なければならない。

### 多くをやろうとせず、少数を選ぶ

ある参加者は、順序をつけた大量の写真を机いっぱいに並べた。パーは、写真が多すぎると作者の本当の表現を見落としやすいと考えた。

一枚では美しいため選ばれた写真も、プロジェクト全体では唐突に見えることがある。大量の写真は、自信のなさや迷いを示す場合もある。選ぶときはすべての写真に執着せず、「それほどよくない」ものや主題に役立たないものを捨て、本当にテーマを表す写真を残す必要がある。

### 遠くにいすぎない

僕は人を撮り、人と話すことが好きだ。ストリート写真家やドキュメンタリー写真家の基礎能力には、コミュニケーションが含まれると思う。

ホームレスの人を撮った参加者に、パーは「作品からあなたの恐怖の匂いがする」と言った。写真は明らかに望遠で遠くから慌ただしく撮られ、撮影後すぐに逃げたように見えた。画面そのものが恐怖に満ちていた。

写真家は恐怖と向き合わなければならない。

### もっと「ゴミ」を撮る

多くの写真家とは異なり、パーは非常に多作で、何でも撮る。そのため「ゴミ拾い」と呼ぶ人もいるが、彼はそれを問題だと思わない。むしろ、多くの写真家は考えすぎるため、よい瞬間を逃しているという。

役に立たない写真を大量に撮るのは普通のことだ。パーは、もっと「ゴミ」を撮って観察を鍛え、他人の呼び方を心理的な負担にしないよう勧める。

パー自身でさえ、撮ったものの大半はゴミだと考えている。僕たちにはよい写真に見えるものも多い。それなら「ゴミ拾い」と言われることを恐れるより、よいゴミをもっと撮ればよい。

## 03 - I Am a Fly

個人作品の講評後、パーは参加者に『I Am a Fly』（私はハエ）という課題を出した。

作品を見る前に、僕はいったん動画を止めて考えた。自分なら何を撮るだろう。ここまで読んだ人も、「私はハエ」というテーマをどう表すか考えてみてほしい。

![『I Am a Fly』課題1](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/07-i-am-a-fly-73544e267000.png)

![『I Am a Fly』課題2](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/08-i-am-a-fly-2207182fd889.png)

### 直接的な連想

一枚は吐瀉物を撮り、もう一枚はゴミ箱の内側から外を撮っている。ある意味では、ハエを汚れや腐敗物と結びつけ、『I Am a Fly』の基本的な条件を満たしている。

これはごく「普通」の連想だ。撮影や連想が間違っているわけではないが、創造性は十分ではない。

パーは、二枚とも少しテーマから外れ、緊張感にも欠けると評した。画面があまりに整いすぎているが、ハエはそのようにまっすぐ飛ばない。ハエと汚いものを自然で明快に結びつけてはいるものの、ハエの見方にはなっていない。

### よい写真、しかし……

![よい写真だがプロジェクトには合わない作品](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/09-good-photo-wrong-project-a30e7463a5b2.png)

上の写真はよい写真だが、パーの見方では、『I Am a Fly』との目に見える関係がない。プロジェクトを撮るなら、作品は主題と密接につながるべきだ。

参加者によれば、外で三人に出会い、「もしあなたがハエなら、何を連想しますか」と尋ねたところ、三人が手で「複眼」を表したため、この写真を撮ったという。

説明がなければ、僕にもよい写真に見える。しかし、パーの言うとおり、このプロジェクトに入れるべき写真ではない。

プロジェクトを編集するとき、僕たちは単写真のよしあしを気にしすぎ、全体の一貫性を忘れやすい。写真が主題に合っているかさえ見失うこともある。写真家は自作に恋をし、客観的な判断ができなくなりやすい。常に自分へ注意を促すか、友人に選定を手伝ってもらうのも一つの方法だ。

### 主題に応えた作品

![主題に応えた課題1](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/10-i-am-a-fly-response-ef8b3c82f600.png)

![主題に応えた課題2](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/11-i-am-a-fly-response-5c341b25909f.png)

![主題に応えた課題3](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/12-i-am-a-fly-response-257b6d63a825.png)

![主題に応えた課題4](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/13-i-am-a-fly-response-9f9b2d8203f4.png)

これらはどれも主題と密接につながっている。ここで腑に落ちる感覚があれば、パーの写真観、つまり面白くユーモラスな観察をおおよそ理解できるだろう。

四枚は最終的な最優秀作品ではなかった。選ばれた作品は講座で確認できる。ただ、この四枚からでもいくつかの問いを考えられる。

- よい写真とは何か
- 傾きやピンぼけがあれば、よい写真ではないのか
- 優れた構造と色彩があれば、必ずよい写真なのか
- よい写真はどう物語を伝えるのか
- 自分が本当に撮っている主題は何か

講評を見ながら、僕は自分の観察の枠が少し破られるような感覚を覚えた。現場にいたら、最初か二番目の例のような作品を撮り、それを「よい写真」だと得意になっていた可能性が高い。

最初の例は、あまりに明白な連想を表している。たとえばサッカーの試合で激しい競り合いを正面から撮る一方、観客の表情を見落とすことがある。しかし観客の顔は、試合の激しさを映す鏡でもある。観客を撮ることでも試合を表現できる。

貧困を撮るとき、多くの写真家が手のひらや顔のしわを選ぶのも同じ理由だ。そうした兆候は貧困という主題を明確に指し示す。この方法は間違いではないが、あまりに単純で直接的である。

二番目は、今の自分が陥りやすい問題だ。美しく「芸術的」で、騒々しい写真を撮り、作品に酔ってほかの表現の可能性が見えなくなる。よい単写真は撮れても、写真の「言語」が不明瞭で方向性がない。深遠に表現したつもりでも、実際には誤った表現で不正確な主題を語っている。

一定の技術を身につけた写真家ほど、この状態に陥りやすい。『I Am a Fly』の講評を見て、観察者である写真家は、不正確な技法で表現していないかに注意し、繰り返し考え直す必要があると思った。

## 04 - 写真の境界を越える

![中国で撮られたマーティン・パーの婚礼写真1](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/14-china-wedding-portrait-15a43a605ab4.png)

![中国で撮られたマーティン・パーの婚礼写真2](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/15-china-wedding-portrait-296c827c5228.png)

参加者の作品と講評から、再びパー自身へ戻ろう。上の二枚は、彼が中国で「撮影した」作品である。「撮影」に括弧をつけたのは、彼自身がシャッターを押した写真ではないからだ。

パーは、中国では結婚前に一式の婚礼写真を撮る習慣があり、多くがスタジオで制作されることに気づいた。背景は豪華な環境や遠方への旅行を演出し、被写体は裕福でくつろいだ姿勢をとり、幸福な生活への憧れを表す。

彼はこの習慣と方法を面白いと感じ、自分も写真館で「撮られ」、完成した婚礼アルバムを自作へと転換した。遊びと実験を好む写真家であることがよく分かる。

これは一度だけの出来事ではない。パーの面白さは、本人が遊び好きで、写真に対する理解も広いところにある。マグナムの一部会員が彼の加入を伝統への反逆だと捉えた理由も理解できる。

中国だけでなく、ブラジルや北朝鮮などでも、現地の慣習に従って同様の作品を「制作」している。伝統的な意味では写真と呼びにくいものもある。絵画に近いものや、モノクロ写真へ手で色を塗ったものもある。しかし形式がどう変わっても、写真家本人の愉快な性格が見える。

![各地の写真館作品1](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/16-local-studio-portrait-e9147d13b414.png)

![各地の写真館作品2](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/17-local-studio-portrait-0683e1e9dfe3.png)

![各地の写真館作品3](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/18-local-studio-portrait-4cd1ca2a1dcf.png)

![各地の写真館作品4](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/19-local-studio-portrait-2e17abd20cbe.png)

これらは、写真とは自分でカメラを使って像を撮ることだけではなく、ほかの素材や表現方法も考えられるのだと理解を広げてくれる。

中国の婚礼アルバムのような素材は、物そのものとして置かれるだけでも、被写体、写真館の写真家、パーによる、人間、世界、幸福への異なる見方を示す。その背後には文化的な衝突や思考の差も現れる。

もう一つ興味深いのは、パーが仕事以外の時間にはカメラを持ち歩かないと語っていることだ。

## 05 - 好奇心を保つ

ワークショップの論理を理解するには、パーをさらに知る必要がある。彼にはユーモアがあるだけでなく、強い好奇心がある。好奇心そのものに生まれつきユーモアが含まれるからこそ、作品から笑いを読み取れるのかもしれない。

彼には、サダム・フセインの肖像が入った腕時計を集めるという特別な趣味がある。そのほかにも、奇妙な品々を集め、撮影している。

![マーティン・パーのコレクション1](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/20-martin-parr-collection-85a3e6134fa2.png)

![マーティン・パーのコレクション2](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/21-martin-parr-collection-71cdeb281cdc.png)

![マーティン・パーのコレクション3](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/22-martin-parr-collection-157a6aacf172.png)

![マーティン・パーのコレクション4](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/23-martin-parr-collection-d23d34573027.png)

コレクションからも、パーに控えめなユーモアがあることが分かる。それは内側に隠れた、いかにも英国的なユーモアである。

作品の「ユーモア」と「独特な観察角度」は、外からの訓練や学問的な教条によって形成されたものではなく、極めて内面的な表現だ。ブラックユーモアと風刺を帯びた写真を見ると、自然に「これはマーティン・パーの写真だ」と思う。個人的な好みを見ても、そのスタイルが本人の性質から生まれたことが分かる。

しかし、僕を含め、多くの人の内面には同じユーモアがない。ならば同じ作品は撮れないのだろうか。ある意味ではそのとおりだ。**しかし、第二のマーティン・パーになる必要はない。**

パーは、写真家は好奇心を保つべきだと言う。好奇心がなくなれば、写真もやめる。彼の写真は好奇心の外在化であり、その延長であり、世界を観察する方法なのだと思う。

## 06 - まとめ

![マーティン・パーを考える1](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/24-martin-parr-summary-3f1c961d3e11.png)

ここまでパーの作品と『The Last Workshop』について多く語ったが、分析はまだ終わらない。公式サイトを見れば、僕が彼を「いたずら好きの老人」と呼ぶ理由に同意するだろう。彼には、美しい「ダサかっこよさ」さえある。

サイトや一部の本のデザインは本当に野暮ったく見えるのに、写真は美しい。奇妙な組み合わせには思わず笑ってしまうが、同時に暗く鋭い内容も含まれている。

![マーティン・パーを考える2](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/25-martin-parr-summary-f42d85043aed.png)

ここまで読めば、なぜ当初マグナム会員が加入へ強く抵抗したのか想像できるだろう。一方で、のちに彼がマグナムの会長になったことは意外に感じられるかもしれない。

『世界の目―マグナム・フォト』を読んだとき、多くの写真家は非常に自我が強く、激しい感情を抱え、芸術の名のもとにほかの写真様式を軽視しているように見えた。しかし、マグナムにも変化を促す人は必要だった。パー一人がマグナムを「改革」したとは思わないが、少なくとも大きく異なる観察と解釈を持ち込んだ。のちにマグナムが教育講座や対面ワークショップを展開したことも、評価すべき試みだと思う。

パーについては、まだ多くの文章と写真を共有したいが、今回はここまでにしたい。『The Last Workshop』についてのこのノートが、普段とは異なる世界の見方と、いくつかの問いを届けられればと思う。
