# 日常写真と「コンポラ」

> もちろん、コンポラ写真を模倣し続ければ、私たちはまた別の模倣に陥ってしまう。そのため、自分たちの「言語」と「体系」を築くことも非常に重要である。

- Language: ja
- Published: 2019-11-20
- Author: GuoJing
- Category: Post
- Canonical: https://afterimage.photography/post/ja/conpora-photography

現在、私たちの写真に対する理解は、画面、構図、ぼけといったものに、より多く向けられているように思う。しかし数年後にそれらの写真を振り返ったとき、そこから何かを取り出すことは難しいようにも感じられる。今では、「美しい」写真、精巧な「構図」、鋭い部分と滑らかなぼけを備えた写真を簡単に撮ることができる。何倍にも拡大して毛穴まで確認できる写真さえある。急速に発達するスマートフォン写真と AI は、写真を「知らない」人でも「よい」写真を撮れるようにし、それをいつでもどこでも共有できるようにしている。では、今日の写真はどのようなものであるべきなのだろうか。

私を以前から見ている人なら知っていると思うが、私は中国における写真の発展について、以前から「日本に及ばず、西洋にはさらに及ばない。しかし私たちも、自分たちの道を見つけて突破する必要がある」という考えを持っている。多くの理論が蓄積されていくことについて、私は比較的悲観的である。写真では十分に食べていくことも難しく、まして豊かに食べることはさらに難しいからだ。

それでも、どの時代にも、調べたり読んだりできる資料はある。そして、ほかとは異なる何かを記録しようとする人もいる。

## 01 - ロバート・フランク

現在、私たちが「決定的瞬間」という言葉を好むのは、その言葉があまりにも力強いからである。この言葉を口にするだけで、ある種の高い立場に立ち、ほかのあらゆる撮影を見下ろせるような感覚さえ生まれる。20世紀前半のアメリカでも、この考え方は大きな影響力を持っていた。当時のアメリカには「シリアス・フォトグラフィー」とでも呼べる風潮があり、モノクロ、客観性、決定性、瞬間といった要素があってこそ、本当の写真と見なされていたように思う。

![ロバート・フランクの写真作品](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/01-robert-frank-35f30a4b5b12.png)

しかしロバート・フランクの写真作品は、当時のアメリカに大きな衝撃を与え、「決定的瞬間」と「客観的写真」にも異議を投げかけた。ある角度から見れば、「決定的瞬間」や「客観的写真」が誤りだったわけではない。それはルネサンス以前の、神性に満ちた絵画と同じである。それらを間違いだとは言えない。ただ、今日から見れば、より多くの場合、一つの束縛だったと言える。

![『アメリカ人』の作品 1](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/02-the-americans-1-7fef104171e4.png)

![『アメリカ人』の作品 2](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/03-the-americans-2-141ecb024edf.png)

![『アメリカ人』の作品 3](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/04-the-americans-3-98b27bbb674c.png)

![『アメリカ人』の作品 4](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/05-the-americans-4-54ae00a09f55.png)

それ以前、人々は写真に対して真剣な態度を取っていた。ピント、露出、構図は、教条とまでは言えなくても、写真を学ぶ学生が身につけるべきものであり、写真家にとっても当たり前の「習慣」だった。写真のピントが合っておらず、露出も正しくなければ、それだけで「作品」として成立しないように考えられていた。

この角度から見ると、退廃と喪失感に満ちたロバート・フランクの『アメリカ人』が、当時のアメリカ人に大きな衝撃を与えたことは確かである。ピンぼけ、混乱、だらしなさ、退廃といった表現は、一方では視覚的な「新鮮さ」をもたらし、他方では、繁栄するアメリカの表面の下にある不条理を実際に記録した。

「意味のないぼけ、粗さ、灰色の霧、傾いた地平線、画面の大部分を占めるゆがみ。」これは当時の写真の「アカデミズム」側からの批評だった。しかし、そのような現実の不条理が人々の視野に入り、力を持つことを止めることはできなかった。

## 02 - 高梨豊

高梨豊は日本大学で写真を学んだ学生だったが、卒業後、写真について迷いを感じていた。桑沢デザイン研究所に入ってから、ようやく意識的に写真を撮り始めた。

高梨豊にまつわる興味深い出来事の一つに、作品集『お疲れさま』がある。この作品集は、高梨が当時の著名人たちをスタジオに招いて撮影したものだった。その方法も技術も高く評価され、彼の名前は広く知られるようになった。しかし本人は非常に腹を立て、「このような作品が賞を取るとは信じられない」と考えた。そして「私の作品はこういうものではないと、彼らにわからせる」と決意し、街に出て制作することにした。

このとき、ロバート・フランクが高梨豊に着想を与えた。

![高梨豊の写真作品 1](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/06-yutaka-takanashi-1-d1c5e5db1b01.png)

![高梨豊の写真作品 2](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/07-yutaka-takanashi-2-8c519daf04a9.png)

![高梨豊の写真作品 3](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/08-yutaka-takanashi-3-883363dea43f.png)

![高梨豊の写真作品 4](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/09-yutaka-takanashi-4-aef4ec805892.png)

![高梨豊の写真作品 5](https://afterimage-images.sgp1.cdn.digitaloceanspaces.com/duidui/2026/08/10-yutaka-takanashi-5-c5daeba4b4ba.png)

ただし、正規の写真教育を受けた高梨豊は、ある面では依然として秩序や意味を求めていた。ある部分では型を外れていても、別の部分では「きちんとして」いなければならず、何らかの「言語」や「意味」に戻る必要があると考えていた。この点が、おそらく高梨豊と森山大道の違いなのだろう。

## 03 - コンポラ

時代という問題もまた、何らかの意味を持ち、写真に影響を与えているように思う。たとえば前世紀のアメリカの不況や日本の社会運動は、別の側面から写真における観察や行為を変えた。高梨豊、中平卓馬、森山大道などの写真家は、そこから新しい着想を得て、自分たちの言語に取り込み、それまでとは異なる写真の方法を生み出した。

いわゆるコンポラ写真には、五つの「目に見える特徴」がある。

第一は横位置の構図である。縦位置の構図は、上下の構造が持つ意味が強すぎるため、写真家の目的が表れやすい。写真家がどのように世界を切り取ろうとしているかを、あまりにも直接的に示してしまう。その結果、作品は事大主義に近づく。事大主義とは、力の差がある状況で、小国が自国を守るために大国に仕える方策を指し、また全体を見ずに細部を誇張するという意味もある。そのため、表現が単純になりすぎる。

第二は、構図の美学に依存しない作品である。つまり、今日「構図」と呼ばれるものを形式化した作品を避ける。水平な地平線、縦横をそろえた格子状の建築、ちょうどよい曲線、黄金比がもたらす教条に従えば、作品は工場の流れ作業のような反復から逃れられない。

第三は、技法を使いすぎないことである。たとえばアレックス・ウェッブや、「最良の瞬間を待つ」形式の写真は、客観的で冷静すぎるため、切り離された感覚に満ちている。ここで何が正しく、何が間違っているかを述べたいわけではない。繰り返し強調したいのは、コンポラ写真が提示したものは「素朴で直接的」であるということだ。

第四は、被写体の多くが「日常的なもの、私たちが身の回りで時折目にするもの」であることだ。コンポラは、身の回りにあるものこそが「私たちの生活する範囲」を表す重要なものだと考える。身近な主題から離れて撮影すると、そこに生まれるのは疎外と分裂である。この分裂は内側から生じる。つまり、写真家と被写体が一致せず、調和していないことから生まれる疎外感である。

最後は、「決して説明的な写真ではない」ことである。美しい女性は必ず美しく、貧しい人には多くのしわがあり、写真は誰にでもわかりやすく撮らなければならない、という考え方ではない。反対にコンポラは、「いかなる説明的な言葉でも説明せず、写真そのものに語らせる」ことを目的とした写真活動であると考える。

## 04 - 日常写真

コンポラ写真から今日の私たちが考えられることは、あまりにも「正規」で「真面目」な写真作品を撮ること以外に、生活に根ざしたコンポラ写真も一つの選択肢になりうるということだ。とりわけ、スマートフォン画像の爆発的な増加や AI の登場と発展、たとえば Photoshop で月を加えるような状況を考えると、なおさらである。

このことは、実際には数十年前のアメリカと日本でも起きていた。時代が変化し、上向きだった経済が冷え込むと、人々は、写真家自身も含め、迷い、不安、挫折を経験するようになった。この挫折によって、人々は写真の背後にある表現について、より冷静に考え始めた。それは技術なのか。細部の解像、ぼけ、構図、偶然なのか。

ある段階まで来れば、私たち自身も飽き、考え直し始めるのかもしれない。内面が変化するとき、日常そのものも変化し、真面目なものと不真面目なものも変化する。数十年後にこの変化を振り返ったとき、本当に残っているものは、時代によって選ばれた現実なのかもしれない。

もちろん、コンポラ写真を模倣し続ければ、私たちはまた別の模倣に陥る。そのため、「言語」と「体系」を築くことも非常に重要である。
